バーチャルYouTuber (VTuber) 「キズナアイ」が初の動画投稿から3年弱で窮地に立たされている。
初音ミクになれなかった哀しみ

2018年 (平成30年) 11月25日。キズナアイの知名度や人気が急激に高まっていた最中にTwitterに投稿されたこのセンシティブな絵。一見「(キズナアイ人気に押され) 死に絶えた初音ミクと、それを看取っているキズナアイ」に見えることから「時代の変化とその主役の”政権交代”」を表現しているものであると解釈されることが多かった。
しかし作者によれば「初音ミクは作者がいる限り永遠だし作者が多様だから死体にだってなれるが、お前 (キズナアイ) はどうなんだ?」という意味を込めたものであるという。確かに「普段キズナアイが存在する白い空間で初音ミクを看取っている」のは不自然であり「何にでもなれる初音ミクがキズナアイの元に来て問うている」ようにも (人により見ようによっては) 見えてくるだろう。
初音ミクはボーカロイド (VOCALOID/ボカロ) という「楽器 (=ツール)」であるという点においてキズナアイとは大きく異なる。ボカロ系作曲家によって本来の姿であるバーチャルシンガーとして活躍出来るし、ほかにも多くの人々と手を取り合って進むことで多様な姿での活躍を見せてくれる。究極的にはまさに死体にだってなれるわけだ。
初音ミクは様々な困難を乗り越えてきたからこそ12年以上にわたる継続と世界的活躍という「今」がある。副題に記した「キズナアイがなれなかった初音ミク」とは一時の利益やブームで終わることなく多くの人々とともに一歩一歩進んでいくという「(初音ミクの) 姿勢」そのものを指しているのである。
初音ミク二世、または憧れの初音ミクの背中を追う存在として挙げられることもあったキズナアイ。一時の盛り上がりに多少羽目を外すこと自体は否定しない。しかし既に宴は終わっている。一時の高揚からこの絵を自身への戒めであるとも受け止められないまま来てしまった事が今日へと繋がっているとも言えるのかもしれない。
挙句の果てに「死体にもなれない」のだとしたら、それは死ぬよりも辛いコトだろう。
Activ8という哀しみ
「(キズナアイは) 親に恵まれなかった」「お家騒動で迷走した」
その様な言葉で片付けるにはあまりにも残酷だが、もはやこのActiv8という企業は一企業としての姿勢そのものまでもが問われるべき状況にまで及んでいるのではないだろうか。
同社は8月16日にキズナアイを巡る問題に関する声明を中国の動画プラットフォーム「bilibili (ビリビリ) 」にて発表、日本国内のメディアも相次いで報じたものの、10月7日現在に至っても日本においての説明は一切行われていないままである。
ノーサイドになれなかった哀しみ
2019年 (令和元年) 10月7日現在「ラグビーワールドカップ2019」が国内で開催されている。
日本代表をはじめ各国代表の熱き闘いが連日報道される一方、試合終了も意味するラグビーの「ノーサイド」の精神が注目を集めている。試合の時は敵でも、終われば共に健闘を称え合う。実際の現実社会ではなかなか難しい姿勢ではあるものの、政治の介在しない文化やスポーツの分野において世界中の人々を繋げる道標となることだろう。
そしてキズナアイが当初コンセプトとして掲げていた「世界中のみんなと繋がりたい」という姿勢もまさに「ノーサイド」であった。国籍問わず多くの外国人視聴者やファンを獲得してきたのも、いわば政治問題など人間社会の現実と別次元に存在するAIというキャラクター性からくる親しみやすさにYouTuberとしての「人間性」を感じられたことも大きかったのではないだろうか。
しかしActiv8はキズナアイの「世界中のみんなと繋がりたい」という当初のコンセプトを根本から揺るがす方向に舵を切る。
2019年 (令和元年) 6月30日のキズナアイ生誕3周年記念イベント「A.I. Party! 2019 〜hello, how r u?〜」にて中国語版キズナアイが公開され、bilibili向けに中国限定動画を公開し始める。その後の顛末は既報の通りであり、運営体制の分裂や政治的発言といった深刻な事態へと発展するトリガーを引いたのである。
また中国語版キズナアイは視聴者を「京都アニメーション放火殺人事件」に絡め批判するなど様々な醜聞をbilibili上で発信した結果、中国のキズナアイファンからも支持を失うに至った。
中国語版キズナアイの発表時、中国のキズナアイファンが「アイちゃんは中国語を覚える必要はない。私達が日本語を覚えるから」という旨のコメントを寄せていた事。日本語のみでトークしながらも世界中の人々を惹き付けていったという、政治も国籍も越えて 「世界中のみんなと繋がりたい」 キズナアイが当初大切にしていたはずの「ノーサイド」を反映した声であるといえるだろう。
それを反故にした。ノーサイドになれなかった哀しみは現在進行系で膨らむばかりである。
絆も愛も失った哀しみ
初音ミクの成功から学び、また憧れの初音ミクの背中を追う存在として目されていたキズナアイの哀しい現状に言葉に形容し難い感情を抱く者は少なくないだろう。このActiv8の無為無策が招いた「絆も愛も失った哀しみ」がもたらした結果はこのままでは日本のコンテンツ史全体においてもかなり深刻な部類として歴史の1ページに記録されることになりかねない。
なおこれほどの事態にも関わらず昨今のキズナアイのYouTube動画再生数は極めて深刻な水準にまで下落している。生放送配信の視聴者数は1,000人を割り込むまでになった。もはや興味関心すら持たれなくなっているという事なのだろうか。
もはや不可逆的状況にも思える。
それでもまだ希望があるのなら…あるのならば…あるというのならば、原点に還るべきだ。
YouTube
中の人の能力をあまりにも軽く扱った、認めなかった。
肯定派も素でやってると言う人がいますが、素の何が悪いのか説明してもらいたいもんです。
「みんな頑張ってんだ!お前だけ特別じゃないんだ!」とか、強迫まがいの事言われたんだろうな。
日本人の悪習で出る杭は打って平準化してしまう
軽く扱われる声優業界の新たな成功事例としても認めるべきだった。
とにかく中の人の声に哀しみが含まれてしまったのが本当にやるせない。
当たり前だけど大衆は芸能人を物として扱う
何故なら「すぐに捨てれる都合のいい便利なオモチャ」でしかないからだ
だからこそ海外では「どのように扱っても疲弊せず文句も言わずスキャンダルも無く常に在る」初音ミクはジャスティン・ビーバーより芸能性で優れていると言及された
初音ミクに克つことは永遠に無い
存在価値がそもそも違うからだ
人である限り感情がある限りvtuberは廃れるのが定めだ
VTuberの形も、初音ミク同様、作り手の数だけあると思います。
「VTuberになりたい」と思う人が連綿と現れ続ければ、VTuber文化は後世まで残ります。
自分はボカロPですが、VTuber文化を応援しています。
大体中国版のせい
初音ミクのファンには、新しい文化であるVTuberに対して、マウントを取るようなことはしてほしくない。
初音ミクだって、昔は既存の他ジャンルから、凄まじく叩かれていた。
初音ミクファンがVTuberを叩くのは、
「いじめられっ子が、いじめっ子になる」
のと同じな気がする。
歴史から学ぶなら
初音ミクだって2007年は騒動ばかりだったし、何回死んだと言われたか分からない
だからきっとアイちゃんも真に集合知になったとき人の力で蘇るかもね
私はもう一度やり直してくれるのを待ってるよ
2007年時点では初音ミクはまったくの無名で、騒動なんてものはなかったよ。
ミクブームの火付け役にして最大ヒット曲のひとつである「みっくみくにしてやんよ」すらまだなかった頃。
自分はアイちゃんにわかだけど、いくつか動画を拝見した感想としては中の人の功績がデカかったように思えた。
運営はまったくそうとは思わず、キズナアイというキャラクターを「使えば」何しても売れると思ったのかね
最近Vtuber熱再燃しました。といっても前は全然興味なかったにじさんじと最近知ったホロライブばかり見ています。
のじゃおじが引いたのは知ってたけど他の四天王どうなったのと調べてここにいきつきました。
キズナアイ陣営の、複数の人格をインストールできるというのは、バーチャルユーチューバの「バーチャル」っていう点に注目してみれば正直とても面白い企画だと思いますが、これはキズナアイでやるべきではなかった。キズナアイは初期の彼女の人格含めて愛されていたのだから。
複数人格の企画をやるならせめて後輩キャラで実験的にやるべきだったと思います。親分はもう実験的に後付け設定を与えるには愛されすぎててリスクが大きすぎた。まあ後悔は先に立たず,仮に先にここで警告できても何も変わらないのだろうでしょうけど……
彼女は「空洞の存在」 になってしまったね。
ミクちゃん見たいな「世界の存在」に成れたわけでもなく、
伝説のサルゲッチュシリーズのチャルちゃんみたいな「バーチャル空間にいるハカセのアシスタントな存在」に成れたわけでもない。チャルちゃんの場合は、女性ガンで逸材声優さんが居なくなったから、時のキャラクターに成ったんだけれどもね。
声優さんに愛されなかった。産みの親にも愛されなかった。ホントの「空洞の存在」に成って仕舞ったから。